《知識の浅い専門家と知識の深いド素人》

 学問というものは面白いもので、専門家をはかればどこまでも専門家が出来る。多くの学ぶ者が陥る問題は、深く学んでいけば深く理解出来たと思ってしまう。ところが物事というのは八方に広がっていくものであって、深く専門としていくと狭い領域に陥っているという事に気づかない。その狭い領域をいくら深くいっても、総合的な知識からは意外とあまり役立たない方向に行ってしまう事も多々ある。

 そうなってくると、他の専門家の目から見ると非常に落ち度だらけのポイントが見えてくる。これが面白いところだ。この学問、この科学、この専門知識など確かに専門的ではあるけれど、この考え方に落ち度があるな、こういうところに隙間があるな、ここから考えるとこの考え方は論拠として薄いな、などいろんなことが分かる。

 これが専門家をかじった人から見ると、「素人には難しすぎる」という判断になりかねない。実はここが非常に愚かなところで、つまり学ぶ者に専門家も素人もないんだという、この初歩的なことに気づかない。言葉上いろんなことを知っていても、物事の根本まで変わることではないから、そこを理解しなければ学問は進まない。いくら言葉を知っていても、その本質を知ることには繋がってはいかない。物事を知れば知るほど自分の知識の浅さに気づいていくものなのだが、深さに気づき始めるとそこからは進めない。

 自分たちは知っているから、他の人間は知らないから、と上から下への目線で物事を捉えていく。それだけでおさまってしまう。私なら自分が発想しえない発想を誰が打ち破って、この学問を進めてくれるのだろうと楽しみになる。いかに門戸を開いて、いかに触る機会を増やしていくか、現状の問題点を守りながら広めていく、接触させる方法はないのか

と考える。実際に人がこの学問の方向に向かうように、向かえるようにする。

 自然やジオ構想は学者のものではない、むしろ学者から一般の人にいかに引き継ぐか手を貸すか、そこが重要。

 

 我々の活動も100%良い活動だとは言い難いが、少なくとも現状の中では未来の子供たち、今の子供たちが学ぶチャンスに繋がる活動が出来たと感じている。